岩井の本棚 「本店レポート」 第11回 |
なにがオモロイの?
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消えた作家、という文脈でギャグ作家を語ると、こういう言い回しがよく出てきますね。それは
「ギャグマンガ家はギャグを突き詰めていくと、なにが面白いのか本当にわからなくなり、ギャグが描けなくなる」という表現です。
とはいえこの表現のもととなった作家群は、たとえば赤塚不二夫であり吾妻ひでおであり鴨川つばめであり、 江口寿史であり、けしていまの作家ではないことも事実です。
今は4コマ含めればかなり多くのギャグ作家がおり、みながみなこの状況に陥るわけではないですね。
この表現を信じるのであれば、吉田戦車はとっくにギャグが描けなくなっているはずだし、 うすた京介もデビュー10年だからそろそろギャグがわからなくなってきてる頃だと思うのですがそんな兆しは見えませんし、久米田康治も消えてたっておかしくないです。
ですがやはり今でた人は大いなる例外というべきであり、ギャグマンガ家はそのインパクトはよそに、作家が数作で消えることが少なくないジャンルです。
そして消えるということは単純に人気がなくなったから(作品に需要がなくなる)というのがもちろん大部分ですが、人気があるにもかかわらず、 作者がギャグが描けなくなることも実際にあります。
現在スペリオールで「漫歌」を連載している相原コージが最後に「作家活動20周年記念4コマ」というを展開してます。
いつも自嘲モード鬱展開バリバリで、何でカネ払ってまで相原コージの生き様の愚痴を聞かなきゃいかんのかと 毎回読むたびに腹立たしいのですが(単純にグチや自嘲がエンターテイメントに達してないレベルなので)、 気が付けば相原コージも作家生活20年なんですね。
相原コージは、ギャグマンガ家でありつづけて20年。これってすごいことですよね。 若い頃、コージ苑を読みバカ笑いし、サル漫で「とんち番長」の突き抜けに笑った日々が思い出されます。
ただ実質20年とはいっても、ここ10年で何を残したかというと非常に微妙で「サルでもわかるマンガ教室」以降、一般の人たちの印象に残る作品はなかったと言い切れます。
その空白の10年間、何をしていたのか?
ファミコンの仕事をしたり、1コママンガを描いてみたりしてたことは思い出されます。
そしておもに漫画関連書籍やインタビューを受けるたび 「色んな仕事を試みたけれどどうしても何か空回りしてしまい、一つとして成功したものはなかった」 「もう何を描いていいか分からなくなって旅に出たこともあった」。
当時の相原コージはインタビューやマンガ関連書籍で、しきりに描けなくなった、何をしたらよいのかわからない・・・といったポーズを饒舌にアピールしていました。
同時代的なマンガ暦を持っている人ならわかると思うのですが、 その当時の相原コージは本人も作品も見ているのが本当に痛々しく、 芸能人で言えば自殺未遂を起こしたあとの中森明菜とか、破局した後の宮沢りえとか。そんな割れ物感がありましたね。
ずっと読んでいた僕もムジナで離れ、積極的に読まないことでその痛々しさに触れるのを回避して月日は流れました。
そして世間も相原コージがギャグマンガに与えた影響をまるでなかったかのように流し、相原コージの「ムジナ以降」は完全に黒歴史扱いになってしまったのです。
(図1)
その名は「なにがオモロイの?」。
すでになにが面白いのかがわからず、いまの読者が一体なにが面白いと思っているのかもわからない、 と自己申告した上で、相原コージが自分が面白いと思うギャグマンガを描き、それを読者に面白いか面白くないかを投票で判断してもらおう。そういった企画でした。
投票は書店の出口調査とネットで行っていたのですが、ネットで意見を承ったのがたぶん失敗の元だったんでしょう。
無責任な批判と糾弾にさらされて相原コージはすっかり磨耗し、第8回で狂いオチ(書き殴った電波絵で終了)にしたものの、読者の糾弾にあってすっかり人間不信に。
途中からはネットの意見を全く無視して自分の書きたいように描く、といって、意味不明なマンガが羅列される状況になりました。
「なにがオモロイの?」は僕も通して読んだのは初めてですが、これは本当にすごい本です。
「ギャグとは何か」を突き詰めていくと、なにが面白いのかわからなくなる、というのを地でいった展開。
斬新なこと、前衛的なこと、実験的なことが必ずしも面白いとは限りません。
本書は実験的なギャグだと相原コージが思った手法を次々を試して作品化しているのですが、 どれもこれもクスリとも笑えない、というか、どの部分に付いてギャグが盛り込まれているんだろう、とか考えることが膨大に生まれてきます。
主人公が無機物だったらどうだ、とか意味不明な風習があったら、とか、植物のマンガはどうだろう、 とか色々と相原コージは「自分が面白いと思うこと」を繰り出してくるのですが、 笑えない以前に「ギャグとは果たしてなんなのか」を考えないとこの本の主旨である「笑える/笑えない」というジャッジメントが付けられなくなり、 自分の中の笑いの琴線を補正する必要が出てきます。
最後まで読みおわると、自分の中のギャグという枠組みが壊れてしまっているので漠然とした不安感だけが残るのです。
ためしにこのマンガを読んでください(図1)。
無機物が主人公、というスタイルで描かれたギャグマンガなのですが、主人公が人物でなくとも、 と石を主人公にしたりなど手法が実験的ではあるものの、笑えるわけではないんじゃないかな・・・と感じるのですが、 出口調査、インターネットとも3割以上の人がこれを見て「笑えた」としています。
もう一回読んでみて下さい。
僕は何度も読み返してそれでも笑えなかったのですが、3割もの人が笑ってるんです。
どこかに笑いがあるはずだ・・・とポイントを探したのですが、見つかりません。
しかも3割の笑率に対して相原コージは「低い」と納得がいっていません。あなたは笑えましたか?
全篇コレなので、とにかく読後感は猛烈な不安感のみ。
なにが「笑い」なのかを考えると、眠れなくなるほどです。
これだけの不安感を人に与えることが出来るなんて、やはり相原コージはすごい才能の持ち主といわざるを得ません。
よく「読むドラッグ」というような言い方をされる本はたくさんありますが、 これはデプログラムマンガとでも呼ぶべきものかもしれません。
笑いに関して普通にみなが共通認識として持っていた部分を解体させられてしまうのです。
そしてヘンなマンガばっか読まされたため、通常のギャグマンガを読む前に「笑っていいんだよね、オレ」と確認を取る必要が出てくるのだから厄介です。
平衡感覚が狂う。それが一番近い読後感でしょうか。
笑いとはそもそもなんなのかを突き詰め、搾り出した挙句、アタマの中に何のカケラも残らなかった。
この「なにがオモロイの?」は相原コージが自分で自分に課した苦行であり、復帰への足がかりであったものの、 結果としてこのあと数年のリハビリを経ないといけなくなってしまいました。
読んだ人の笑いへのバランス感覚や基準を狂わせ、描いた当人もリハビリが必要になった、 なんて本は近年なかったように思います。明るい装丁とは別に、怨念の書といえましょう。
この本、カバーもなく定価も380円、というコンビニ廉価本扱いだったのです。
こんなにも苦しんだのに、何も印税があまり入らないこんな廉価本で出すことないのにと思ったのは僕だけでしょうか。
ページ単価1.24円とか、コミックの価格破壊とか、ヒドイ評価です。
おかげで入手するのも困難、で、存在的にも黒歴史に入ってしまい、完全になかったことになっている本書。840円。1月14日(土)に本店2に出します。
※この記事は2006年1月13日に掲載したものです。
(担当岩井)