@ 2020・4・11
虚空蔵55様 みわ様
いつも大変深遠な御教示まことにありがとうございます。
先日いただいた「ただ「大元の意識」などという事は書いていないはずです」との御教示が、最初はよく理解できませんでしたが、意識というエネルギーの在り方を考えるに、「本当の意識は、宇宙に遍満するエネルギーであり、全ての源である」「意識自体に二元性はなく、陰陽に分けたために二元性が発現しています」といただいた御教示をさらによく考えますと、これまで私が瞑想の中で、真我への道ではとみなしていた基部がそれに対応するのではないかと思い至りました。私はそれを真我に直結するものと思っており、そこまでの間の道程は全く分かりませんでした。
私の瞑想は現段階で大変未熟ですが、集合点の移動ということが未熟ながらも成立しているところがありますので、それによって、認識の次元が一時的にですが、移動するのだと考えられます。
私がアジズに倣って、SP(State of Presence)と呼んでいる瞑想の対自は、集合点そのものであり、それが移動することで次元の上昇や下降が、認識と共にフラクタル次元として生じるのだと思われます。あるいはフラクタル次元として説明できると表現した方がいいのでしょうか。
それは「この現れの宇宙における根源的なエネルギー」ですから、非人称で、ワンネスそのものです。しかし、それは意識である限り、真我ではないことになります。つまり小悟以前にとどまります。私などは千歩手前どころかそこから後ろに落っこちそうな所をうろうろしていますが、EOやニカルガダッタの様な方々であられても、その時分にはまだ真我に還帰されておられなかったということですから、それがとてつもなく果てしない予想のつかない道程だと思います。
質疑応答14で
「追補 上位次元を見る
私たちは上の次元を認識することが出来ないと書いておきました。
ただし、境涯が覚醒間近により上昇し 現象界から離れ、色々見ることが出来るようになりますと、上位次元の景色を実感出来るようになります。
ただ、その風景は現象界とは異なっているのは当たり前ですが、そのためこちらサイドでその「見てきたもの」を表現するのが難しいのです。
例えば、それを何らかの幾何学模様や抽象画像として表してみることは出来ますが 現象界の人たちには チンプンカンプンで意味を持ちません。
これは大事なことで「チンプンカンプン」ということは 単に理解出来ないということだけではなく「認識出来ない」ということなのです。
ですから、本来向こうから持ち帰った印象や情報はキチンと現象界用に翻訳しなければいけないのですが、 それは非常に難しいでしょう。
そもそも感覚器官があちらとは異なり、感覚器官が違うということは、認識が全く違うということなのです。
だから、その辺りを曖昧にしておくと、霊界やあの世、天上界などの様々な齟齬が現象界との間で生じてくるのです。」と教えていただいていることが、わずかながら実感されてきました。
「それを何らかの幾何学模様や抽象画像として表してみる」ことをEOは音楽でもしていたのであろう。EOの語る宇宙そのものも同様であろう」と連想しました。
実存になろうとか、真我になろうとかというエゴの思いを断ち、全てを解き放つ在り方でいると、私の世界が私のいない世界になり、それと対峙する身体感覚や三次元的な外界を伴った二元の様相の自己側をその境地と同質であることを認識していると同化して一つの世界になりました。
それはただあるだけですが、EOの描いた幾何学模様のようなものを生じさせることもあります。
以前、2017/6/10 No.3428で、
「あなたが体験したものは実存(もしくは真我)です。
「ただ真我の一瞥は稀有な事ではありますが、真剣にここで学んでおられる方たちには次々と顕現して来ることになっています。そして一瞥の後、そこからどこまでその精度を深めていくか、一瞥の記憶を保持しつつ更なる真我の体現を求めていくことがこれからのあなたの課題になります」
また他の箇所で
「「実存」或いは「真我」どちらでも同じなのですが、それを表現する手段はこの世にはありません。五感を脱して初めて見えてくる領域です。
そして五感を通じて見る世界とは「エゴ」そのものですから、エゴからの脱却が「完全覚醒」にとっていかに大事かがわかると思います」
「あなたもそうですがすべからく人はエゴを保持したまま真我(実存)に入ることは出来ません。
「何度でもいいますがエゴの希釈は重要な(ほぼ唯一のメソッドになります。」
「その覚醒を得たEO氏でさえ、今生では簡単に覚醒したように見えますが、実際は彼の集合魂を含めて、無数の転生において想像を絶する修行を重ねて来ています」
「まず「実存」とは「真我」と「生きる世界」の境界線上にある境涯です(これはちょっと難しいので「宇宙全史」第二巻をお持ちください)。「実存」から「意識」がほとばしり、「意識」から「意志」が生まれています」
「確かに意識は至高なるものの身体ですが、その前に至高なるもの(真我)から意識というエネルギーが出て来るのです。そしてそこ(意識)から意志が発現しています」
「「瞑想」のメソッドとしての位置づけは、「注意力の特化」ということがいえます。
日常の注意力である通常の認識力とは異なり「夢見の注意力」というものを獲得するために「瞑想」は行われます。
もっとわかりやすくいいますと(すでにどこかで書いておきましたが)「覚醒しながら眠る」或いは「眠りながら覚醒している(気づいている)」というメソッドです。
このような「特殊な注意力」の獲得は「完全覚醒」には欠くことのできないファクターとなります」
「ただ何度もいいますがこの瞑想は覚醒に至る一つの道ではありますが、一つの段階であることも事実なのです」と詳しく御教示いただいているところですが、
ここ3ヵ月の瞑想から、フラクタル次元、時間、空間に関して極めて大雑把ですが、浮かんできたことがありますので、あらためて御指導をお願い申し上げます。
私の考えの誤謬を御指摘いただきたい一心です。恥を忍んで投稿します。
スーザンさんの素晴らしい研究とそれに対する虚空蔵55様の御教義を大変楽しく拝読した後の瞑想
「実存はまだしも、真我の一瞥というものは、この五感を超え、時間と空間というカントの純粋理性批判で認識の基盤ともされているそれが無いということであれば、それはそもそも表象することが不可能になり、瞑想は、中途半端な身体感覚の残存の中で不完全な只管打坐に置かれ、漂わざるを得ない。
しかしそれでもその状態の方が以前よりも実存の次元としては深いように感じられる。
一体これを記述することが、数学と物理学で出来るのか。
哲学は言葉で語られざるを得ないものであれば、もうすでに二元性の制約はまぬがれず、それを表現することはほぼ不可能である」
「静かに祈りを重ねていると、意識が静寂になっていき、エゴのあるところが実存に置き換わっていき、全てが均一のワンネスになった。真我に向けて瞑想を深めていくと、涅槃寂静のような境地に達した。究極の暗黒。空間も時間もない」
「実存においても、体験と一体化しているが、体験を観察できるので、対自と対他が共存できる。空間と時間について観察してみようと思い、やってみたが、空間は三次元空間とは異なり、何かうねりか波か振動のような異種性がある。認識の次元が変わることに連動しているのであろうか。時間は流れているようには感じられないが、思考や何かの動気が生じると発生するように思える。カントが純粋理性批判で、空間と時間をアプリオリにしているのは、これが枷であったからなのだろうか」
「五感では表象できないが、瞑想で、フラクタル次元の中を集合点は移動して、エゴを脱却する動きがとれる。そこからの脱線はしかし容易で、マインドが入れば、思考が展開され、それに気づくといずれ通り過ぎていく。
「五感で表象できない所で、一体空間とか時間とかが認識されることがそもそも成り立つのか。夢における時間と瞑想で無我になった時の時間はその様相が酷似している。身心脱落 只管打坐のみ。現象学的還元。デカルト=フッサールスクール。分析ではなく総合」
「三次元とはおそらく共同主観性の産物で、物象化である」
「今日はSPが自分の中心に位置し、それが瞑想による集合点の移動によって、フラクタル次元、認識の次元が変化していく様を体験したように感じた。
マインドがない。それは実存そのもので、道元の心身脱落、只管打坐の境地とバーナデットの自己喪失の体験が実存であることが実感される。
「フッサールの発生的現象学の記述様式が援用できるのではないか。しかし三次元の知覚による認識に翻訳してはいけない」
「認識が出来ないので、表現は出来ないが、そこに集合点が移動できること、本来真我から意識を経てこの現在に至っていること。
時間は何かが動くことから生じるのではないか。認識の次元が縦横に動くこととパラレルではないか。何かが展開するから時間が生まれるのであろう。歴史が生まれるのだ」
「表象がないのと、無を表象するのは違う。表象がないと停滞してしまう」
「瞑想は最初ごみごみしていて、そのうち静寂になった。真我とは表象されないものであるから、それを無として捉えることもできない。一瞥が可能なのは、真我になっていないからであり、真我に到れば、今の意識は溶け込むように消えてしまう。語ることができる間は実存の境地である。何かを何らかのように感じているが」
「今日は真我に真正面から向かい、いくつかの局面を経て、アジャシャンティのいう空になった。途中、時間について考察した。
「それは.真我から、意識が生まれ、陰陽の二元に基づく動きに伴って、それに内在する時間が、生じ、周りとリンクするのか。時間だけ単独では存在せず、何かの生成や展開が成立することで時間が語られることになるのか。
「途中、一面漫画の世界になった。様々な絵が現れては消えていった。自在な境地。その脈絡が見えず。その空と自己が一体となる」
「世界平和の祈りを続けていると、すっと高次元の波動に入れる感じがあった。そういうことが何回か繰り返され、実存に入れたと思う。この感じが瞑想の中であるということは、フラクタル次元に関して、スーザンさんが質問していたときの御回答で、一次元がいくら進んでも点であるが、その軌跡が上位次元をたどり、一次元であるが次元は上昇しているという虚空蔵55様の御教示に結びつく。一次元であるが上昇していることが一次元のものに分かるということで、集合点の移動が起きているものと思われる」
「認識と次元はパラレルで、1次元2次元3次元の今までの概念規定を変更する必要があること。次元の中のフラクタルな動きが時間を作り出していることなどを考えた」
「今日の瞑想は今までにない展開を含んでおり、大変大きな出来事に思う。いつものように瞑想を深めていったら、エゴが薄くなり、意識に達した。意識であるから対自が可能で、自分の身体意識も共存しながら、観察をしていた。フラクタル次元であるので当たり前であろうが、認識によりどのようにでも変容するようで、大変危険なものだと思われる。意識そのものに同一化する際のワンネスはすごいもので、究極の無のようである(大げさ)。なぞらえるのは僭越であるが、バーナデットやEOが言及している自己喪失や無はこの意識への同一化で体験するものと考えられ、それは実存へと通じて行き、フラクタルな次元であるのだろう」
「実存はフラクタル次元で、自分の認識により様相が変わると考えられる。であるから、誤解に次ぐ誤解、誤謬に次ぐ誤謬と言うことが起こりえるので、正しい方向性を示す指導、情報がとても大切に思われる。自分の認識が間違っていても、気づかなければそれはどんどん展開していくので、真我とは全く異なるところへ到達する危険が大きい。というか、導きがなければ不可能だ」
「善でいないといけないという姿勢が強迫的に身についている。陰陽の二元性からその前の本源的な意識になり、それが真我に帰る時、全ての記憶が無になるのか。
今日は途中から真我の一瞥に包まれて、無になった。後半、性のカルマが現れてきて、陰の部分であると認識した。私の一番底に定着するものがある。過去からのものが糸を引くように付いていて、それがちぎれて無くなっていく。私はこの真我にとどまる。この糸は不安と結びついている。であるから、エゴを表象しているのだろう」
長すぎて申し訳ありませんでした。まとまりがなくて申し訳ありません。
現状、真我の一瞥まで瞬間行かれたとしても維持が出来ません。私も小学校から中学までは数学少年、理科少年で、大好きな科目でしたが、高校で見事に落ちこぼれ、高三の時は数学の出来ないクラスに選抜されていました。スーザンさんの御投稿を読んで感動し、昔の血が騒いで、時間に関する本をあれこれ取り寄せて見たのですが、とても歯が立たないので、残念ですが、その領域に口を出すのは慎みます。
質問です。
@以前パラレルワールドに関する御教示で、
「さて精神世界の中では全く語られることのないマイナーな概念の大雑把な説明をしてきました集合点が移動することで私たちの認識は変化します(この移動が私たちの世界移動と同じ意味つまり知覚が変わりますので、認識が変わり、世界が変わっていきます。
その変化は単に「違ったように見える」というようなものではなく、明確な集合点の移動は世界が変わるという状況をもたらします。
その結果私たちはこの身このままで別な世界に移動し(本当は移動するわけではなく、世界がなのですが)、この世界からは消えてなくなってしまいます。
そういう劇的な変化をもたらすのが集合点の移動なのですが、この集合点の移動にも2種類ありまして、
「縦方向の移動」通常私たちのいうところの上下の次元移動
「横方向の移動」これが並行世界の横方向の世界です
そして集合点の縦方向とは、集合点が身体の内部方向へ移動することであり、横方向とは身体の表面上だけをウロウロする移動になります。
この「身体の表面上の移動」という表現がわかりやすく。パラレルワールドの横の世界とは世界線上にありながらも異なる世界構造を有しているのです。
私たちが経験する一般的な集合点の移動は夢を見ている時です。この時集合点は移動しやす明断夢などを見ている時は結構あちこち動いています。
それを起きている時に移動させる技術がドン・ファンたちの技なのです(瞑想はその中の一つの静的なパターンです)」
と教えていただいておりますが、私ごときの瞑想でも、それを深めることで、次元における時間の様相の差異を探求する道が、五感を越えてひらけていくのでしょうか。時間も空間もない世界で、五感に閉じ込められている我々が瞑想を通して何かをつかむことが出来る可能性、条件について御教示をお願い申し上げます。
A五感や思考を越えた認識の在り方とは、直観あるいは意味自体が伝わってくるようなものなのでしょうか。
Bエネルギーから万象は生じていると考えられますが、上の上のそのまた上の方から降りてくるものとは、意思でも意識でもないのであれば、意味のようなものなのでしょうか。
C陰陽の二元性を越えるということは、善だけではなく、善悪を超越した在り方に帰還しなければいけなくなるのでしょうか。
D人間のスピリットに報いるということや、戦士として心ある道を行くことについても、善悪を越えた在り方があるということになるのでしょうか。
E陰陽の陰が少し多いことで、力動が生じて、陽が展開していくのではないか。陰始はそのために必要な因子だったのではないかなど、あれこれととりとめのない考えは浮かびますが、善悪の二元性を越えることに関して、理解が及びません。これについて、御教示いただきますようよろしくお願い申し上げます。
虚空像55様 みわ様
この脳天気な質問をどうぞお許し下さい。
大変な状況の中ですが、変わらず一層精進する所存です。何卒よろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。
五井先生 月読之大神 EO いつもまことにありがとうございます。
A 2020・5・17
虚空蔵55様 みわ様
日々の深遠な御指導まことにありがとうございます。
この前の質問の後、日々瞑想が深まって、マインドが入ることが少なくなってきました。
「今日は昨日の仕事の不安を左後方に抱えながらの瞑想であったが、今までにないワンネスで、本当に実存そのものの私は在る状態になれた。思考が遠くなり、無でもなく、実存であった(と思う)。途中、自分が悩んでいることとも関連して、善悪の問題が重なっていたが、統一されていった。それを生じさせていたエゴが薄れていったのだろう」
「今日は最初の呼吸からすでに深まっていき、お祈りの中で、実存が中心に定位した。素晴らしい境地。実存になっている。私は実存そのもので何も言うことはない(と思う)。実存は無でも静寂でもない。やはりエネルギーだ。全てだけではない。個でもある。でも開かれて大きくなる。タッグ光線はエネルギーそのものだ」など、毎日思いきり背伸びをしてメモしており、読み返すと恥ずかしい限りですが、その過程で、ぜひ教えていただきたい稚拙な質問がもう一つ生じましたので、また恥を忍んで投稿させていただきます。
「真我から意識がほとばしり出て、それが陰と陽に分かれて、少し陰が多いためにゆらぎが生じ、それが次の展開を生み出していく。0は無とイコールではなく、0=1+(-1)であり、0=∞+(-∞)であるから、無理数も含め、それは全てである。(虚数がどう位置づけられるかはまだ分かりません)」と考えます。
宇宙全史1を紐解きますと、エル・ランティはパイトロンによって、自分の中にもともとある「サタン」という性を分割しています。エル・カンターレもミカエルとルシフェルに分断されており、それぞれ前者が善方向、後者が悪方向と説明されています。
他のところで、ダヴィンチに対応する負の存在がメフィスト・フィレスであること。天神界を司るのは太陽意識、魔人界を司るのは月意識と御教示いただいています。
正の存在には必ず負の存在が対応していること、虚空蔵55様がトライアスロンで受け取られた恩寵には、怪我をするなどの負の出来事をもってバランスをとらなければいけなかったエピソードなどから考えて、正と負という二元論のあるこのオーム宇宙においては必然的に両方を背負わなければならないのが法則なのだと考えます。
質問です。
仏陀、五井先生、月読之大神と呼ばれるオーム宇宙を超えたエネルギーにおいても、対応する負のエネルギーというものがあるのでしょうか。もしそうであればそれはどのような展開をもって今に至られたのでしょうか。それとも上のエネルギーは最初から必要なとき以外はもちろん二元論を超越しておられるので、例えば、二元論発現が必要な時のみ、一時的に負の存在を生じたりされるのでしょうか。それともこの法則を超えておられるのでしょうか。
未熟なだけでなく大変不遜な質問ではないかと畏れ多いのですが、善悪を考える時、いつも仏陀、五井先生は善そのものとしかイメージできません。月読之大神はもう少し違うイメージですが、悪のそれではありません。お許しいただけるのでありましたら、ぜひ御教示のほどよろしくお願い申し上げます。
月読之大神 五井先生 いつもまことにありがとうございます。心より感謝申しあげます。
どっぺん様
@2020・4・11
「先日いただいた「ただ「大元の意識」などという事は書いていないはずです」との御教示が、最初はよく理解できませんでした」
●ここはとても難しい内容になります。
どっぺんさんから頂いた文章は、
「真我になるとは、我々末端の個である意識がこの大元の意識に遡行して、それが真我に帰還することなのでしょうか」
多分この部分だと思います。
どっぺんさんが「大元の意識」をこの宇宙に遍満する「意識」というエネルギーとされていたのならそれは正解です(本当はちょっと違うのですが)。
私のその時の理解は、どっぺんさんが「真我」=「大元の意識」とされたように読み取れましたので「それは違う」と書いたのです。
理解が足りなくてスミマセン。
@「時間も空間もない世界で、五感に閉じ込められている我々が瞑想を通して何かをつかむことが出来る可能性、条件について御教示をお願い申し上げます」
●そんなものはありません。
あきらめて下さい。
つまり「五感に閉じ込められている」限りその可能性はないということです。
A「五感や思考を越えた認識の在り方とは、直観あるいは意味自体が伝わってくるようなものなのでしょうか」
●それは段階によりますし、方向性にもよります。
B「エネルギーから万象は生じていると考えられますが、上の上のそのまた上の方から降りてくるものとは、意思でも意識でもないのであれば、意味のようなものなのでしょうか」
●それは「不知」です。
C「陰陽の二元性を越えるということは、善だけではなく、善悪を超越した在り方に帰還しなければいけなくなるのでしょうか」
●それ以外に何があるのでしょうか(それ以上に、すべての二元性を理解し、そこから脱却しなければならないでしょう)。
D「人間のスピリットに報いるということや、戦士として心ある道を行くことについても、善悪を越えた在り方があるということになるのでしょうか」
●そこでは既に善悪を超えています。
E「陰陽の陰が少し多いことで、力動が生じて、陽が展開していくのではないか。陰始はそのために必要な因子だったのではないかなど、あれこれととりとめのない考えは浮かびますが、善悪の二元性を越えることに関して、理解が及びません。これについて、御教示いただきますようよろしくお願い申し上げます」
●先日プレアデス派の方たちの特徴のようなものを少し書きましたが、イルプロラシオン派の方々の特徴の一つに「二元性の理解が苦手」ということがあります。
おそらくエル・ランティの影響が大きかったのでしょう。善悪の価値観による長年の被支配は、根深い迷妄を植え付けられてしまっていたようです。
プレアデスはその点少しだけましなのですが、まあどっちもどっちといったところでしょうか。
一応質問にはお答えしましたが、ずいぶんと混乱が見られる文章です。
最初に一見したときは「う〜ん」が本音でした。
もう少し平静さの修行が必要ですね。
A2020・5・17
「仏陀、五井先生、月読之大神と呼ばれるオーム宇宙を超えたエネルギーにおいても、対応する負のエネルギーというものがあるのでしょうか」
●ありません。
既にその方たちに内包されているものになります。
「善悪を考える時、いつも仏陀、五井先生は善そのものとしかイメージできません」
●それはあなた方が脆弱なので、そういう見せ方をなさっているだけです。
(私はあの方たちより未熟ですので、そういう見せ方が出来ていないだけです)
「未熟なだけでなく大変不遜な質問ではないかと畏れ多いのですが、善悪を考える時、いつも仏陀、五井先生は善そのものとしかイメージできません」
●そこがイルプロラシオン派閥の弱点でしょうね。
だからいつまでもどこかあなた方の深層心理では、エル・ランティが「善」なる御馳走を見せびらかし誘っているのです。
虚空蔵55