虚空蔵55様 みわ様 月読之大神様 五井先生
いつもありがとうございます。
宇宙全史のワークにご参加されていらっしゃる皆様
どうぞ宜しくお願いいたします。
2019/12/14
小菅氏の「次元と認識」(コピー)を入手いたしまして1か月少し経ったところです。すべてに目を通せたわけではないのですがBBS2019/12/13にアップされた一連の文章を拝読し、まずは書かなければという内からの思いがあり、筆を執らせて頂きました。わたくしは数学理論を全く分かっておらず、次元と認識というテーマに挑むには形而上のイメージでしかお伝え出来ないため、文系的表現になってまいります。後で見返せば校正したい部分は山ほど出てくるでしょうが、自分の気持ち、タイミングも大事だと思い、まずは書き進めていきたいと思っております。皆さまのイメージの組み立てにマイナスの影響を与える可能性もあろうかと思いますので、つどご指摘もしくは破棄をお願いいたします。
以下のイメージは、2019/12/13 No.3900の虚空蔵55様の内容を踏まえまして、小菅氏の「次元と認識」と、個人的に20年ほど前から自身の次元認識に活用している情報を元に書き出してみたものです。
以下、次元が直角に交差、交わることを「直交」と表現しております。
@0次元(点)←1次元(点に直交する「線」の動き)
0次元の点を観察するには同じ点である0次元からは観察できず、点に直交する1次元の線の動きの中から点を観察できる。
A1次元(線)←2次元(線に直交するタテヨコ十字が「平面」2次元になる)
1次元の線を観察するには、線に直交したタテヨコ(が回転運動を起こす)の平面(2次元)から観察できる。
B2次元(面)←3次元(2次元の平面に直交する高さの方向)
タテヨコのベクトルを持つ平面に直交する高さの視点から2次元平面を観察できる。
C3次元(立体)←4次元(小ダマの観察主体の位置)
我々が認識していると思っている3次元空間はタテヨコのベクトルを持つ平面に、直交する高さを加えた空間イメージですが、この流れで行くと3次元を観察するには4次元からの認識が必要ということになります。この4次元の描像からイメージが困難になってくると思われるので、ひとまず我々から見えている3次元視野をいったん2次元の平面に落とし込んでみます。3次元空間を現している絵が目の前に飾ってあるとして、その3次元に見える(3次元を表す)2次元の平面と直交する方向に4次元(小ダマの位置)があるとしたら、それはどこになるのか。それはわたくしたちの視点、眼差しの奥、つまり小ダマの観察主体となるのではという捉え方です。つまり認識を生み出している観察主体が3次元世界には存在しないというイメージとなります。この例ですと2次元の絵を斜めから見ている視点、眼差しと絵画とでは直交していないと考えてしまうでしょうが、実際の現実では我々が見ている3次元が全て写真のように平面だったらと捉えてみます。カメラで写真を撮る時は必ず被写体とカメラのレンズは直交関�犬砲△蠅泙后H�曚亮�映笋蠅砲覆蠅泙垢�▲團�修離D絅咼坤爐箸いι漸莠衙,�瓦兇い泙后�纏澆靴討い襭下仝気粒┐涼罎吠�瑤瞭阿C簍輿蠅��瓩蕕譴討�蝓△燭箸┐佝瓩靴ど従陲函�鬚靴ど従陲函�_靴ど従陲函∧鯀海箸垢詆従陲覆匹鯑瓜�防舛海Δ箸垢詆漸莠衙,任后�海寮纏澆靴���ぢ次元の絵画に様々な角度からの視点や様相が込められているのは小ダマの観察主体の位置が過去から未来に流れていると感じられている時間概念が、実は同時に存在している捉え方にも通じていると思っております。上位次元からの俯瞰観察では、宇宙は始まると同時にすでに終わってもおり、それをfilmのように体験する仕組みと自由意思と思えるようなものを行使できる構造があったということなのでしょうか。
D小菅氏の「次元と認識」と宇宙全史1のP438のイメージ図を参照させて頂きますと、5次元は4次元にある小ダマの観察主体がパラレルに広がる方向に直交する5次元平面となってまいります。そしてこの5次元平面(実際には全く平面ではないかと思いますが)に直交する6次元の位置から観察している元ダマがいます。現在の論点は小ダマの4次元からの視点から見える小数点以下の3次元の様相と関わりをどのように描像するのか、そして数的理解と我々が実体験している世界認識を虚空蔵様のおっしゃる有機的な理解にどのように結びつけていくのかということであるかと思います。
【仮説A】フラクタルでは横移動と縦の次元移動が存在し、横移動では模様、様相の変化があり、縦移動では上位次元への移動と下位次元への移動があるとします。縦次元においては次元が下がるにつれ、フラクタルの様相も単純になり、より可能性の幅の狭い世界、ある程度固定化されたパラレルしか存在しなくなり、最低次元では全く動きのない凝固した点のような世界となっていくのに対して、上位次元へ移動するにつれ、フラクタルのパターンが豊かに展開し、小ダマの人生パターンのパラレルの幅、ダイナミズム、可能性のパターンの幅が広がると考えられないでしょうか。上位次元に移動するほど世界の可能性の自由度が増し、フラクタルのパターンがそれこそ「まんだらけ」「曼陀羅華」のように広がっていくイメージです。
【仮説B】フラクタルは極大から極小へ、または逆の方向にも同時に向かい、それが無限のパターンで同時に存在するため、極大と極小、極高と極低、あるいは未来と過去の二元概念を等化せよ、というメッセージと取れないでしょうか。この宇宙次元の高い低いというバランスを等化するために次元の一番高いところが一番低いところに繋がる円環構造があり、そもそも無限自体が存在できないという前提で考えると、リーマンの円環構造がさらにトーラス構造を持って循環しているという仮説です。先日のスーザン様の投稿における虚空蔵55様とのやり取りにおいて「リーマン球面における北極と南極に穴が開いているのではないか。直径の両端点にあたる部分に穴が開いている」「構造体のてっぺんとどん底に穴が開いている」とはトーラス構造そのもののように感じます。地球の磁気の流れも相似形のごとくトーラスになっており、球面のように果てもありませんので、有限でも無限に感ぜられる構造として機能するように思えます。
【参考】フラクタルを「秩序と無秩序の境目」と表現されている方がいらっしゃいました。大変魅力的な表現だと感じました。そもそも秩序と無秩序は二元対立するのか、等化できるのか、ともはや禅問答ですが、こんなところに宇宙の魅惑的な構造を感じます。また「クラインの壺」は宇宙構造を解明する何かの手掛かりになりませんでしょうか。私は数理論で示すことができませんので、何かのキッカケになればと思っております。
4次元の小ダマの現実認識
4次元の認識感覚が小ダマの実生活においてどのように認識されるのかですが、わたくし個人の感覚といたしましては、移動感覚の減衰もしくは消滅。所有感覚の減衰もしくは消滅。見える視野そのものが途切れなく、光の球体として存在し、認識と同一化されるようにイメージされます。宇宙全史シリーズで映画館のスクリーンを見ているような、との記述がどこかにあったかと思います。その感覚に近いのかどうか分かりませんが、自身の観察主体の位置は全く動かないにもかかわらず、場面が次々と変わるということにおいては映画観賞とも言えるかと思います。相当リアルな映画ですが。。。EO氏が覚醒において、宇宙の果ての果てから一瞬にして引き戻された瞬間の様相を表現された文章がございます。認識変換と覚醒の有り様として、私の心に強く印象に残っている部分を引用させて頂きます。
・・・・・・・・・しかしそれは絶対的に異常な体験だった。まるで何億光年もの、遥か宇宙の彼方にまで伸びていた私の意識が、一瞬にして自分の中心に引き戻されたのを感じた。それは「前にも経験したことがある」というようなものでは全然なかった。それが実際には何億年もの生命経験の末に起きた事であると私は痛烈に感じた。しかし同時にそれは、とてつもなく当たり前で、「懐かしい感覚」だった。しかし懐かしいと言っても、それは幼少時代の感覚だの前世だのと、そんな次元の懐かしさでは全くなかった。おそらくは、私が宇宙に最初に誕生した時の感覚を、気の遠くなるような時間と空間の旅の果てに、たった『今ここで』、やっと思い出したという実感であった。とても変な、たとえであるが、ゴム紐を自分の腰につけたまま、何億光年も遠くまで探求をしていた自分が、一瞬でゴム紐に引き戻されて自分の身体の中心軸に、音を立てて当たったという感じさえした。・・・・・・・・・・
わたくしは、この現象を無限に遠いと思われる無限遠点(想像上?思考上の?理論上の?)から、無限に小さい存在として外部から自分を認識している錯覚圧力が限界に達し、遥か遠くまで伸びていた思考意識が一瞬にして観察主体の軸に引き戻され反転し、観察主体から認識されている宇宙と融合する、いやそれは融合というより、始めの始めからそうであった原初の認識状態に立ち戻るという意味で、観察主体と観察される側が分離しているように感じられていた錯覚が瞬時に溶解した様相だと思っております。無限宇宙の中の点にしか過ぎないと思われた観察主体が瞬間で世界を丸ごと飲み込んでいく意識の反転、そういうようなイメージ捉えられ、もう何の文章だかという感じですが、ただ、わたしにはとても響くものを感じます。
◯ここからは、わたくしが少し前に別に書いていた文章になります。上記の内容と重複している部分がございます。
虚空蔵55様 みわ様 月読之大神様 五井先生
いつもありがとうございます。
非公開情報を受け取り約半年が経過いたしました。ありがとうございました。私にとって宇宙全史の情報は発売されている既刊本からして、すべて非公開情報のような印象を受けております。毎月のように刊行される質疑応答集、月刊宇宙全史というタイミングに恵まれ、大変有意義な時間を過ごさせて頂いております。わたくしにとって虚空蔵55様の文章はとても美しく、読むごとに心が洗われるように感じます。内容が自分にとって必要なだけではなく、その文面から香り立つ中庸な佇まいが、わたくしにとって大きな活力となっております。
宇宙全史のテーマの一つとなっております次元と認識につきまして、わたしの今までの人生で気づきのように感じられたものをまとめてみたいと思います。
@外から眺められない自分
20年以上も前の話ですが、人から「あなたは自分を外から眺めているね」と言われたことがあり、稲妻に打たれたような衝撃を受けました。その当時は自分が何に衝撃を受けているのかよく分かりませんでしたが、かなりの時間を経て「そもそも自分を外から眺めることができるのだろうか」というシンプルな問いに辿り着きました。幽体離脱をすれば自分の身体を見ることはできるかもしれませんが、その時にはすでに自分の意識(観察主体は)身体の外に出ていますので、それは(身体)は自分ではないとすれば、いまの自分の身体以外のどんな媒体に観察主体が移動したとしても、自分の意識自体を外から眺めることはできない、ということになります。当時わたしが感じていた違和感、居心地の悪さは、そもそも自分を外から眺めることなどできないのにもかかわらず、外からの視点(自分の観察主体以外の視点)で存在しようとしていたためではないかと思いました。観察主体の意識の向かう方向が真逆であったため、自分が肉体の身体に押し込まれるかのように狭苦しく、息苦しく感じていたと考えております。
補記20191213
20代当時のわたしは言葉にならない世界との分離感に苛まれておりました。胸が苦しく世界との一体感を得ようとするのですが、自分の身体の前面から世界と融合しようとすると、それに比例して世界との分離感が拡大していきました。もちろん、この分離感はひとりぼっちで寂しいとかの感情次元の話ではございません。全宇宙の意識体がわたしとオトモダチになってくれたとしても解決されないテーマでした。小菅氏の「次元と認識」は精読できておりませんが、当時からこのジャンルに類する世界と自己の認識方法を模索しており、なんとかこの違和感、分離感を払拭するために、その一つの解決方法として前面からの世界との一体感を得ようとするのではなく、背面(背中)から世界に繋がる感覚を活用しておりました。
A移動感覚の減衰もしくは消滅
自分が歩いて前に進みます。自分は前に向かって水平に地面を移動しているという当たり前のことが起きるわけですが、私の中ではどこかで移動していない感覚があります。それはまるで映画のスクリーンを見ているようで、場面がどれだけ移り変わっていても自分の観察主体の3次元座標軸は移動しない(自分の意識主体の存在する3次元座標など存在しない)というイメージです。映画館の席に座っているわけですので観察主体はスクリーンの中に登場しておりません。(小ダマの観察主体が3次元空間に存在していないという捉え方に基づきます)
B所有感覚の減衰もしくは消滅
同時に所有感覚の減衰も起こっているように感じます。これは世の中のモノは自分だけのモノではなくてみんなのモノ、ということではなく、そもそも見えているすべてが一つなので所有しようにもできないという感覚です。普通に自分のカバンは自分のカバンですし、自分の靴も自分の靴ですし。それはそうなのですが、視野そのものが一元化されている感じです。
以上、わたしが気づきだと感じているものを書き出してみました。
●ご質問
虚空蔵55様 みわ様は日々とても大変な時期をお過ごしかと思いますので、こちらをご覧になられている皆様とシェアするに値する内容であり、かつ宇宙全史のワークに寄与できるものであれば、お教えいただけましたら幸いです。
覚醒と自覚
EO氏の著作を拝読するにつけ、ハードランディングな覚醒をなさった印象を受けますが、その覚醒者の主観から(※この表現自体が曖昧ではございますが)ソフトランディングな覚醒というものは存在するのでしょうか。個人的な感覚といたしましては、宇宙に目的、意味、存在意義を求めた度合いが大きければ大きいほど、覚醒に至った場合の反動、虚無感が強く現出するイメージがあります。また二元性の相対性のなかである程度行き着くところまで行かなければ、覚醒へ至る反動は生まれづらいように思いますが、覚醒に至った場合、その意識主体には疑いようもない明確な覚醒の自覚は生まれるものなのでしょうか。(宇宙全史には少しずつ起きていく、小慣れていく覚醒もある、というニュアンスの記述がされていたかと思います。)
虚空蔵55様 みわ様 月読之大神様 五井先生
いつもありがとうございます。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
わたくしたちの天命がまっとうされますように
守護霊様、守護神様、有難うございます
五井先生、有難うございます
camsia
camsia様
ちょっと文字化けが出ましたね。
質問だけにお答えします。
「ソフトランディングな覚醒というものは存在するのでしょうか」
●現状存在しません。
覚醒の段階によりますが、最終覚醒にソフトランディングという状態はあり得ません。
それ以外の覚醒には(人にも、その段階にもよりますが)存在します。
虚空蔵55