HOT・Bは1983年7月28日から1993年7月21日まで活動した日本のゲームメーカーである。卓抜な発想力で多彩な作品をリリースし、1987年発売のファミコン「星をみるひと」はその怪奇な操作性と壮大な世界観でレトロゲームファンを震撼させた。

前稿、前々稿では主に1991年頃までの多岐にわたるソフトを紹介してきた。HOT・Bは旺盛な行動力で多くのプラットフォームに参入し、中小メーカーながらほぼ全てのプラットフォームを総なめにする勢いだった。

だがまだ登場していない大物プラットフォームがある。数度の延期を重ねて1990年11月、任天堂が満を持して放った巨星、スーパーファミコン。この新たな機種にHOT・Bは大きな期待をかけた。開発に、傍らでは倒産へのカウントダウンが鳴り始めている。

一 スーパーファミコン登場

ファミコン後継機としてのスーパーファミコン発売を任天堂が最初に告知したのは1987年9月のことだった。翌1988年11月21日、試作機発表。だが現実のリリースはその2年後、1990年11月21日である。日進月歩のゲーム業界にあっては異例ともいえる長い延期だった。

リリース半年前の1990年6月21日、この段階でソフト開発に名乗りを上げていたメーカーは33社に及ぶ。業務向けアミューズメント誌『ゲームマシン』385号(1990年8月1日号)に載ったリストにHOT・Bの名も見える。

HOT・Bがこのサードパーティーに参加する意思はかなり早くから固まっていたようだ。最も古い取り交わしの記録は1989年。1990年1月にはライセンスを交わし、91年に入ると本格的な準備が進められた。彼らのスーパーファミコン第1作は「スーパー上海ドラゴンズ・アイ」、第2作は「スーパーブラックバス」。どちらのタイトルにも、この時期のHOT・Bの挑戦が深く刻まれている。まずはリリース順に見てゆこう。

二 「スーパー上海ドラゴンズ・アイ」

画像はPC版のパッケージ。イメージイラストが説明書や広告に使用された。

1992年4月28日発売「スーパー上海ドラゴンズ・アイ」は、HOT・Bの記念すべきスーパーファミコン第1作である。

原型となった「上海」は1986年7月に米国アクティビジョン社(当時はメディアジェニック社)から発売された一人用パズルゲーム(第1作目はMac向け)だ。積まれた麻雀牌の山から同じ種類の牌をペアにして捨ててゆく。すべての牌を捨てればゲームクリア。隣接した牌や、上に別の牌が乗っている牌は取ることができない。全部を捨てる前に牌を動かせなくなるとゲームオーバーだ。実際の麻雀とは異なるルールでわかりやすさと戦略性を備えた「上海」は多くの派生タイトルやルールを生んで一つのジャンルを作り上げた。

HOT・Bもまた「上海」のゲーム性に惹かれた者たちの中にいた。1990年10月から12月にかけて、彼らはパソコン向け、スーパーファミコン向け、アーケード向けに「上海」のライセンス契約を結んでいる。そしてまず、91年6月28日にPC‐98版「スーパー上海ドラゴンズ・アイ」を発売。次いでX‐68000やMSX2、FM‐TOWNSといった各メーカーの主力PCを中心に展開し、その後92年4月28日にスーパーファミコン版を発売。同年7月からはアーケードゲームの稼働を開始した。

さてこのHOT・B作「スーパー上海ドラゴンズ・アイ」だが、そのポイントは。一人ゲームだった原作に対戦要素「ドラゴンズ・アイ」を盛り込んだ点にある。プレイヤーは攻撃側と防御側に分かれ、それぞれ「ドラゴンスレイヤー」「ドラゴンマスター」と呼ばれるポジションについて対戦する。軽やかな魅力に富んだ作品だが、実を言えばこのスーパーファミコン「スーパー上海ドラゴンズ・アイ」の注目度はゲーム的にはそれほど高くない。というのも、この段階のHOT・Bは、まだスーファミソフトの開発体制が固まり切っていなかったのだ。

三 スーパーファミコン「スーパーブラックバス」

ここで遅ればせながらスーパーファミコンのすぐれた性能についておさらいしておきたい。まずは画面に使用できる色数だが、セガのメガドライブが512色中64色だったのに対し、スーパーファミコンは32768色中256色と圧倒的な差があった。またゲームグラフィックの回転や拡大縮小の制御など、現在の2Dグラフィックゲームでも活用される表現の多くが、内部の機能として容易に活用できるようになった。

ちなみにこれはメガドライブなどでも部分的に実装していた機能だが、それらがソフトのプログラムで制御されていたのに対し、スーパーファミコンはハードで直接制御するため格段に使いやすくなった。しかもその華やかな効果は素晴らしく、タイトルロゴの拡大や回転などメーカーはこぞって使い始めた。

こうした効果がHOT・Bのスーパーファミコン作品できちんと発揮されたのは、第2作目「スーパーブラックバス」からだったと言ってよい。

「スーパーブラックバス」は1992年7月13日に企画書が固まった。その3日後の16日にサウンド発注の記録が残っている。企画進行は相川、サポートに小西。後に朝長彰教が合流して最後の詰めをおこなった。朝長は「インセクターX」「鋼鉄帝国」などで実力を発揮し、栗山潤退社後、開発の中核を担っていた。なお開発スタート後は北米版「Super Black Bass」の作業も並行しておこなわれている。

内容はこれまでHOT・Bが開発した釣りゲームの意匠を取り入れつつ、スーパーファミコンの表現力を生かしてさらなるリアリティを追求するものであった。「ザ・ブルーマリーン」から引き続き採用された「釣り場までボートで移動」のパートでは、画面右下に真下の地形や水深が表示され、これまで掴みにくかった水中の高低差がはっきりわかるようになった。

グラフィックはよりカラフルかつ緻密になり、波風や小鳥のさえずりなど繊細な環境音が響いている。回転しながら手前に向かってくるタイトルロゴ、海に投げ込まれたルアーが水面に向かって飛び込んでゆく表現など、スーパーファミコンのすぐれた性能が存分に発揮されている。

先述した通り、今までの社内の開発機材はこれらの表現には全く不足であった。何しろこの豊富な色数を使いこなすソフトが無いのである。グラフィックリーダー木下亮は社内の汎用グラフィックツールの変更を決断、かつてHOT・Bに在籍していた津金俊昭が完成後の保守点検も含めて開発を依頼された。1991年7月には開発スタート、1992年1月から新機材が本格的に現場に投入された。

ソフトの名は「HOT‐B ORIGINAL GRAPHIC EDITA」、社内での通称「HOGE(ホゲ)」。

ホゲは優秀だった。基本的な描画編集機能に加えてアニメーションやマップデータの管理、旧ツールで作成したデータの互換性も備え、当時必要とされた機能を一通り網羅した。また特定の機種に限らず、あらゆる機種の開発で使用できるマルチな機能も与えられ、さらに市販のパソコンX‐68000で動作可能なため台数も揃えやすかった。

なお、スーファミ開発にはSONY開発のUNIX向けワークステーション「NEWS(ニューズ)」も導入され、「スーパーブラックバス」のグラフィックはこのNEWSとホゲそれぞれを使い分けて進められた。ちなみにNEWSは高価で台数が限られた上、しばしば熱暴走したという。当時HOT・B社屋だった朝倉ビルは深夜に空調が止まったため、夏の夜の開発室の暑さは人にも機械にも過酷だった。

1992年12月4日、「スーパーブラックバス」は発売された。「ザ・ブラックバス」「ザ・ブルーマリーン」など業界で釣りゲームをリードし続けてきたHOT・B入魂の一作であった。

発売直後のタイアップには目を見張らされる。小学館の児童向け漫画雑誌『月刊コロコロコミック』1993年1月号(発売は1992年12月)、ながいのりあき「電脳ボーイ」が「お正月は「スーパーブラックバス」だぜ!」の回で、一話まるまるこの作品をとりあげたのである。1993年、HOT・Bにとってはまことに華やかな幕開けだった。

ながいのりあき「電脳ボーイ」第5巻P.134より(ISBN:9784091417251)

なお、この「スーパーブラックバス」には2種類のパッケージがあるのを付け加えておきたい。発売元がHOT・B名義のものとナグザット名義のもので、後者は再販版と考えられる。ナグザットは加賀電子の子会社・加賀テックの旧名。加賀電子は「スーパーブラックバス」の販売元でもあった。1993年7月のHOT・B倒産後、「スーパーブラックバス」の権利を一時的に加賀電子に移して再生産していたとみられる。異なるパッケージ流通の背景には、発売後僅か半年余りで訪れた崩壊劇があった。

「スーパーブラックバス」パッケージ記載の発売元表記のバリエーション。

四 アーケード「スーパー上海ドラゴンズ・アイ」の挑戦

新しいグラフィックツールを導入して「スーパーブラックバス」の制作に心血をそそいだHOT・Bだったが、実は前に述べた「上海」に関しても補足しておきたいことがある。

実はHOT・Bの「スーパー上海ドラゴンズ・アイ」を語る上で、スーパーファミコン版より重要な版があるのだ。ここでは1992年7月から展開したアーケードゲームに目を向けねばならない。

アーケード版「スーパー上海ドラゴンズ・アイ」は、HOT・Bの強い野心がこもった作であった。もともと彼らのアーケードゲーム参入第1作「中華大仙」は、タイトーの有する既存の基板(ほとんどは「ニュージーランドストーリー」の基板、「L system」)を流用しており、以降のタイトルも同様だった。だがこの作品でHOT・Bは、基板の設計から製造まで自社でおこなうことを計画し、実行したのである。責任者はやはり朝長彰教。

自社生産とはいえ、根幹となるゲーム基板開発は外部の協力が不可欠で、設計は日本メガロジックに、基板のプリントは日本重化学工業に依頼した。グラフィックコントローラーはデータイーストから購入し、部品の組み込みはタイトーの海老名工場へ委託した。データイーストはHOT・B社長高橋輝隆の姉である柏瀬専務とのつながりから縁ができ、1991年6月~8月頃にかけてカスタムチップ提供に関する契約を締結した。両社の仲はそれにとどまらない。データイーストが群馬県高崎市で経営していたゲームセンターの物件を、短期間だがHOT・Bが引き継いでいたのは知る人ぞ知るところである。

アーケードゲーム基板の自社生産は、高橋社長自身による計画であったという。これは、この一作での利益やマージン削減をめざすだけでなく、今後アーケード市場にHOT・Bが本格参入する布石として目されていたとみられるのである。実際、倒産後に世に出回った「シュマイザーロボ」はこの「スーパー上海ドラゴンズ・アイ」の基板で製造されている。また頓挫した「鋼鉄帝国2」の企画がアーケードゲーム向けとして立ち上げられたのも、この流れが前提にあったからだろう。

まとめ

「スーパー上海ドラゴンズ・アイ」と「スーパーブラックバス」、この2つのタイトルの制作経緯は、この時期のHOT・Bがまだまだ先を見据えて戦おうとし続けていたことを明かしてくれる。多プラットフォームへの展開を変更し、スーパーファミコンとアーケードで彼らは巻き返しの可能性を虎視眈々と狙っていた。

スーパーファミコン第3作目「バズー!魔法世界」は1993年7月23日に発売された。HOT・B倒産の2日後のことである。そして「スーパーブラックバス2」はHOT・Bの後継会社スターフィッシュから発売された。

スーパーファミコンの新時代、HOT・Bは戦闘姿勢を崩さぬまま、最晩年を迎えてゆく。

アーケード版のインストラクションカード。「パラダイスモード」など本作独自のモード説明も記載。