HOT・Bは1983年~1993年に活動した日本のゲームメーカーである。広告代理店という異業種からゲーム業界に進出し、本格釣りゲーム「ザ・ブラックバス」、日本初のSFRPG「サイキック・シティ」、伝説の問題作「星をみるひと」、これも日本初の本格的スチームパンクシューティングゲーム「鋼鉄帝国」など多彩な作品をリリースした。

前回は1988年のブロック崩しゲーム「ブロックブレイカー」発売から、それを独自に発展させた「デビリッシュ」「バッドオーメン」の完成までを追った。今回はHOT・B創立の立役者であり、高橋社長の精神的支柱でもあった故・勝又展の制作を中心に、1991年中頃から始まったHOT・Bの開発体制にも言及したい。

[1]ファミコン「プレジデントの選択」

1989年3月2日、HOT・Bは、ファミコン「プレジデントの選択」をリリースした。これは現代の企業を舞台としたリアルな経営シミュレーションゲームであった。プレイヤーは日本第三位の自動車メーカー豊田商事の社長となって、ライバル会社と競い合いながらアメリカ市場制覇をめざす。

まず目を惹かれるのは、ソフトに本格的なシステム手帳が付属する点である。手帳には決算シートがつき、ゲーム内の決算を自分で書き込めるようになっている。決算の手順、経営用語などの説明もあり、さながら経営初心者のミニ教科書といったところか。「経営工学の専門家集団をブレーンにして開発販売から人事·広告活動に至るまで企業経営をリアルにシミュレート」とパッケージにあるが、実際に経営の基礎を疑似体験できるつくりなのだ。

当時「信長の野望」など戦国の戦略シミュレーションゲームは多かったが、現代の経営をシミュレーションするゲームは稀だった。アンケートでは中学生から四十代までの年代にプレイされた記録が残っており、実用的関心からのプレイヤーもいたことが推測される。まさに後年パソコンゲームやプレステなどで一躍認知された実用·教養ゲームの先駆的存在であり、ゲームジャンルの枠を広げる意欲作であった。

アンケートはがきを元に集計されたデータ。

キャラクタデザインには漫画「総務部総務課山口六平太」の高井研一郎を起用。林律雄原作·高井研一郎作画「~山口六平太」は、1985年『ビッグコミック』9月23日増刊号で連載開始し、サラリーマン層を中心に人気を博した。前年の1988年7月~8月にはNHK銀河テレビ小説で全15回の実写ドラマ化も果たしている。ちなみに主人公·山口六平太の勤務先も大日自動車株式会社という自動車メーカーだった。本作の、日本の自動車メーカーがアメリカ市場を制覇するという野望もまた、当時の空気感をうかがわせる。1992年、シャープの電子手帳向けゲームに移植され、ビジネスとの親和性はさらに高まった。

さて、この「プレジデントの選択」だが、企画を立てたのは、HOT・Bの古参ディレクター勝又展だった。勝又は広告代理店ファースト·ファーマーズの営業マン時代、社内唯一の理系人間として自社をゲーム業界参入へと導いた、いわばHOT・B創立の立役者である。

勝又の作風はいわゆるリアル路線だった。特にシミュレーションゲームにこだわりを持ち、現実の体験の再現をゲーム作りに注力した。1984年、勝又は、パソコンゲーム「ザ·ブラックバス」を手掛けたが、これは当時としては極めて本格的な釣りシミュレーションゲームだった。

1987年、ファミコン版の「ザ・ブラックバス」がリリースされる。若手ディレクター栗山潤と組んだ力作で、これがHOT・Bのファミコン進出第一号となった。

既に本稿では既出だが、比較のため改めて振り返ってみると、「ザ·ブラックバス」は解説書でまずバス釣りなるものを説明し、他に「バス釣り必勝テクニック」や釣り大会の会場となる5つの湖の特徴、ルアーの種類などを細かく説明する。プレイヤーは参加季節、天気や水温を選び、ポイントとルアーを選び、キャスティング(釣り糸を投げ込む)の強さを調節する。また、プレス面では、リアルな釣り体験を標榜して釣り雑誌に広告を出す等、通常のゲームユーザー以外にターゲットを広げようとした。こうした動きは、「プレジデントの選択」で、ビジネスマン層の取り込みを確認したらしきアンケート記録とも通じている。

このファミコン版「ザ·ブラックバス」はHOT・B北米進出第1号作となり、アメリカ大陸で高い売れ行きを上げて、高橋社長をはじめスタッフをおおいに喜ばせた。

そして1991年末、「ザ·ブラックバス」の後継作品として、再び釣りゲームがリリースされた。その作品、ファミコン「ザ·ブルーマリーン」は、シミュレーションの臨場感をさらに高め、広いアメリカ市場に大きな販路をひらかんとするものだった。

[2]ファミコン「ザ・ブルーマリーン」

1991年12月27日、ファミコン「ザ・ブルーマリーン」が発売された。

勝又をトップとする開発二部の制作で、企画は浅井健吾、制作進行は朝長彰教が担当したが、勝又からの指示も多かった。開発はミント。ミントはHOT・Bの事実上最終作となるアーケードゲーム「シュマイザーロボ」も手掛けた。

さてこの「ザ·ブルーマリーン」は、「ザ·ブラックバス」同様、緻密な釣りシミュレーションゲームだが、「ザ·ブラックバス」が日本の湖を舞台としたバス釣りだったのに対し、こちらはアメリカでのカジキマグロの雄大な海釣りを対象としていた。

また「ザ・ブラックバス」ではエリアから釣りポイントを選択する方式だったが、「ザ·ブルーマリーン」は、ハワイやフロリダの海域をモーターボートで縦横に動いて魚群をさがし、より能動的な釣り体験が演出されている。

発生するイベントも、前作では糸が切れたレベルの単純なハプニングだったのに対し、「ザ·ブルーマリーン」では「ワイヤーを巻き上げるモーターが焼き付いた」「サメが激突した」「サメにワイヤーを嚙み千切られた」など、より具体的で海釣りならではの臨場感があった。

ちなみに本作のプレイヤーの間で有名なのが「釣っているカジキマグロの胃袋が飛び出す」といういささかグロテスクなイベントである。これは実際のカジキマグロ釣りで、カジキマグロが体内に入り込んだ異物を出すため胃袋を体外に吐き出す現象を取り上げたもの。この胃袋のイベント化に勝又は特にこだわりを見せたという。リアル路線もここに極まれりといったところだろうか。

さらに本作は、プレイヤーが釣りで経験値を高めると体力も成長するレベルアップ制になっており、プレイヤーと魚同士の体力的な駆け引きも盛り込まれた。これまた豪快な釣り体験の再現となった。

「ザ・ブルーマリーン」タイトルアニメーションの絵コンテ。

この「ザ·ブルーマリーン」は、当初から北米での展開を強く意識した作品であった。1990年11月2日付の手書きの企画書には「The Blue Marlin forUSA」と仮題がつけられている。1991年4月にはファミコン版とNES版それぞれ清書された企画書が残る。こうした企画書類では「THE BLACKBASS USA」での売上の手ごたえやテキスト翻訳などについても言及され、「ザ・ブラックバス」の後継作としてアメリカ市場を席捲しようという意欲が見られる。国内パブリッシャー向けに準備されたサンプルROMが英語表記である点も、海外展開が同時並行で進められていたことを物語っている。

なお、本作のタイトルは「ザ·ブルーマリーン」。初期には、カジキマグロ(Marlin)の読みそのままに「ザ・ブルーマーリン」の表記もあったが、任天堂と書類を交わす際「ザ・ブルーマリーン」と誤記した名がそのまま通ってしまったのだという。HOT・Bの後継会社スターフィッシュが発売したプレステ用タイトルでは「ザ・ブルーマーリン」と改められた。

[3]ファミコン「オーバーホライゾン」

さて、この時期のHOT・Bのファミコンでは、1991年4月26日の「オーバーホライゾン」も忘れることはできない。

宇宙を舞台とした横スクロールシューティングゲームで、プレイヤーは連合政府軍の新兵器·高速戦闘機ミカエルを駆って、反政府勢力ガンマと激闘する。

独自なのは、プレイヤー自身がオプションの位置や武器などを編集できる「エディット機能」を装備に盛り込んだ点である。このうちウェポンエディットは発射する弾やボムなど攻撃の威力設定を、またオプションエディットは自機まわりに出現する味方機の位置設定を可能とした。特に後者の、プレイヤーのスタイルに応じて攻撃範囲などを調整できる自由度の高さは斬新で、オプション使いの先駆者アイレムの「R‐TYPE」とはまた別のテクニカルなプレイが楽しめた。

考案したのは佐武義訓。ゲームの体験をできるだけ現実へ近づけようとする勝又に対して、佐武はあくまで虚構世界の完遂にこだわり、その中でのユーザー体験の調整にすぐれた手腕を発揮した。「オーバーホライゾン」の攻撃の自在さは、佐武が参加した「鋼鉄帝国」にも引き継がれ、高く評価されている。

[4]開発体制とまとめ

「ザ·ブルーマリーン」の企画が始まった頃、HOT・B社内の開発体制は、ひとつの大きな変化を遂げていた。それまで商品開発部としてまとまっていた部署が二つに分かれ、栗山潤率いる第一開発部と勝又展をトップとした第二開発部がスタートしたのである。第一開発部は内製タイトルを主に開発し、第二開発部は特に委託開発作品を手掛けたという。

第二開発部の作品がおおむね外注だったのは、勝又一流のこだわりゆえであったかもしれない。また、勝又は、指示が具体性に欠けるきらいがあり、現場では難しいディレクターで通っていたという。

物語性を極力排し、現実の体験を再現しようとする勝又の志向は、HOT・Bの他作品とは一線を画している。というのもHOT・Bの強みはしばしばその卓越した虚構性、シンプルな土台に虚構の味付けをするセンスの良さ、にあったからだ。しかしそれはまた、同社の名を現在のゲームファンに強く印象づけたファミコンゲーム「星をみるひと」のスペースオペラ的広がりとはまったく異なるものである。

HOT・Bが見た星々は、現在のわれわれが想像するよりはるかに多彩であり、幾重もの層に分かれて夜空に光っているのだ。

さて次回は1992年。HOT・Bはいよいよ任天堂のファミコン後継機スーパーファミコンに本格参入する。本稿はその作品「スーパー上海ドラゴンズ·アイ」をメインに据え、HOT・B晩年のさらなる挑戦と格闘のさまを語ってゆく。