HOT・Bは1983年から1993年にかけて活動した日本のゲームメーカーである。旺盛なチャレンジ精神と卓抜な発想力で多彩な作品を発売し、中でも1987年のファミコン「星をみるひと」は熱狂的なファンを有する伝説の問題作として名高い。

ここ数回、HOT・Bのメガドライブ作品を追いかけてきた。難産だった「火激」(1991年)、アーケードのコミカル路線からリアル路線へ変わった「インセクターX」(1990年)、日本初の本格スチームパンクシューティングゲーム「鋼鉄帝国」(1992年)。

この時期はHOT・Bが社屋を最初の東中野から北新宿へ、さらに新宿·朝倉ビルへと移し、ひときわ旺盛に活動した頃だった。また時代も激動であった。ソ連が崩壊へ向かう冷戦末期、ひとつの怪物級ゲームがHOT・Bの前を通り過ぎる。

今回はふたつのブロック崩しゲームを軸として、この時期のHOT・Bの世界の広がりを追ってゆきたい。

[一]PCゲーム(MSX2)「ブロックブレイカー」

1988年7月22日、HOT・BはMSX2専用ゲーム「ブロックブレイカー」を発売した。これはオランダのラダーソフト社作品のライセンス販売で、HOT・Bのゲームブランド「GA夢」の一本としてのリリースだった。

独特なのは、高速で飛び交うボールと上下二本のバーである。プレイヤーは二本のバーをあやつってボールをブロックに当て、下から上へ進んでゆく。下のバーは左右に動いてこぼれ玉を拾い、上のバーは上下左右に動いてボールを上へと押し上げる。上下でそれぞれ防御役と攻撃役になって、二人でプレイすることもできた。

「フツーのブロック崩しならフツーにボールをバーに当てていればいいんだけど、この「ブロックブレイカー」はそんな消極的なプレイではだめ。もっと攻撃的にプレイしよう」(解説より)

「守り」にまわりがちなブロック崩しで、こうした「攻め」の要素は斬新だった。またオランダのソフトという点も目新しかった。取扱説明書では、タイトル脇に「オランダからゲームがやってきた!!」のコピーが躍り、これぞ江戸の「蘭学」ならぬ現代の「蘭遊」、「僕らも昔の人々に倣ってこのブロックブレイカーで一生懸命オランダしよう!」と煽っている。

ちなみに、1983年発売されたMSXはゲーマー用パソコンとして広く普及したが、各スプライトに使えるのは単色で、発色は固定16色にすぎず、表現力の乏しさは明らかだった。これに対し2年後に出たMSX2は、CPUこそ同じ8ビットであるもののグラフィック機能を大幅に向上させ、使える色は512色、画面の縦スクロールも可能となった。

「ブロックブレイカー」は、このMSX2の表現力を生かした華やかさと大胆な攻撃性でHOT・Bスタッフの心をとらえ、おのずとライセンス契約に至ったのだった。

パッケージのイラストはのちに漫画家として名を成したコージィ城倉のもの。当時城倉は、HOT・Bがかつてその一部門であった広告代理店ファースト·ファーマーズに在籍していた。

[二]セガ·ゲームギア作品「デビリッシュ」

この「ブロックブレイカー」をもとにHOT・Bが企画したのが、1991年3月29日リリースの「デビリッシュ」だった。製作はオペラハウス、音楽は崎元仁による。発売は株式会社元気。なお、元気創業メンバーの一人はHOT・Bの元スタッフであり、「元気」なる名前は自分が命名したとHOT・B社長高橋輝隆は語っている。

90年9月17日、栗山潤の名の入った正式な企画書の記載によれば、「デビリッシュ」はセガの携帯ゲーム機・ゲームギアへのHOT・B参入第一作として、ゲームギアの機能性と機動性にマッチするよう考案された。内容はもちろんブロック崩しだが、「ブロックブレイカー」とはがらりと雰囲気を変え、ダークファンタジーの世界観と怪奇な装飾性があざやかな印象を残す快作となった。

初期の企画書で書かれたステージのイメージ。

プレイヤーは、王子と姫が変えられてしまった二枚のパドル(ボールを打ち返す板)をあやつり、青いボールを打ち返しながら暗黒神ガンマに挑んでゆく。下から上へという進み方やパドルを上下に動かす操作性などは「ブロックブレイカー」を受け継ぎながら、怪奇ファンタジーの世界の中で豊富なトラップが繰り出される。ステージ中に散らばったアイテムを回収するとゲームを有利に進めることができるが、シビアな時間制限があり、高難度タイトルとしても知られる。

大量に残る記録の中で最も古い90年7月24日付けの企画草案では、「ブロックブレイカー」の見直しや、異なるゲーム感をめざす大量のアイデア出しなどを見ることができる。初期のタイトルは「ガンマ」。同年10月9日、正式名として「デビリッシュ」が採用された。なお、企画発足の際には通信プレイが構想され、当初二人の協力プレイと二~四人の対戦プレイの二種類が挙げられていたが、開発途中で削除された。

通信機能の構想。開発途中でカットされた。

企画草案では「ブロックブレイカー」を参考に新しいゲームシステムが研究されていた。

この「デビリッシュ」は1992年4月、HOT・Bから続編として出たメガドライブ用タイトル「バッドオーメン」で一躍認知された。さらに2005年4月24日、HOT・Bの後継会社スターフィッシュがNintendoDS向け「デビリッシュボールバウンダー」が発売し、ファンを驚かせた。

[三]テトリス事件

さて、オランダ発の小粋なブロック崩し「ブロックブレイカー」がHOT・Bの前に現れた1988年初頭、もしくは1987年の末頃のこと、その横にはもう一本のソフトが置かれていた。ソフトの名は「テトリス」。冷戦末期のソ連で生まれた怪物級ゲームだが、日本では当時まだほとんどの人間がそれを知らない。

ほぼ同じ時期の1988年1月、BPS社のヘンク·B·ロジャーズは、ラスベガスのCES(コンシューマー·エレクトロニクス·ショー)で初めてテトリスをプレイして、強く惹かれるものを感じた。ロジャーズは、イギリスのミラーソフト社からPC版と家庭用ゲーム版双方の権利を取得し、日本で同年11月18日にパソコン版を(※1)、さらに12月22日にファミコン版テトリスを発売した。

一方、セガは同じ88年11月にアーケード版テトリスをリリース、これが凄まじいヒットとなった。多くの日本人はここで初めてテトリスに目覚めたのだ。勢いに乗るセガはメガドライブ版テトリスへの移植を進めたが、翌89年4月、発売目前にしてリリースを断念し、すでに量産体制にあったソフトをすべて廃棄した。原因はセガの取得していたライセンスが家庭用ゲームソフト非対応と判明したためだった。世にいう「テトリス事件」である。

一方、ヘンク·ロジャーズは、任天堂のゲームボーイ版の版権取得に奔走していた。1989年2月、ロジャーズは単身ソ連を訪れ、版権を管理するソ連外国貿易協会(ELORG)と交渉、見事成功する。その後任天堂がゲームボーイ版テトリスで世界中に爆発的なムーブメントを引き起こしたのは周知のところだろう。(※2)

冷戦末期、鉄のカーテンの向こうで生まれた怪物的なゲーム。それは単純にして強烈な中毒性をもち、プレイヤーの多くがその麻薬的な魅力にとりつかれる……。熱狂は広がり、多くの者が版権取得に狂奔したが、しかしそこには解体を間近にしてなお厳然と存在する国家があり、東西のビジネスは複雑をきわめた。

「ブロックブレイカー」の隣にあった「テトリス」はどこからHOT・Bにやってきたのか。そこにはHOT・Bの高橋社長が関わっていた。

これを遡る某月日、社団法人「日本パーソナルコンピューターソフトウェア協会」(パソ協)のツアーで渡米した高橋は、ビル·ゲイツなども出席する現地のパーティに参加して、アメリカのゲーム会社スペクトラム·ホロバイトの社長ギルマン·ルーイと面識を得た。ここで高橋はテトリスを見せられ、内容はわからぬながらソ連のゲームという点に大きな興味を抱く。高橋はその場でルーイと交渉し成功、首尾よくテトリスを持ち帰った。共に持ち帰ったのが「ブロックブレイカー」。ソ連とオランダという新鮮な二品であった。

このテトリスはスタッフたちに奇妙な印象を与えた。

企画の主力だった栗山潤は語る。

「テトリスが持ち込まれた時、まだ商品として完成していなかったんじゃないかな? 少なくとも体裁は整ってなかったような……うろ覚えですが」

グラフィックリーダーの木下亮は言う。

「テトリスは確かMSX1で、持ち込まれた時はまだテープでロードだったり途中でしばしば止まってたんでまだ開発中だったんじゃないですかね。動作も遅かったんでテトリスの面白さをだいぶ損ねていたような」

MSX1テトリスならイギリスのミラーソフト社も出している。そちらもテープだが、栗山や木下が見たのはまた別の画面であったという。

ミラーソフト製MSX「テトリス」。HOT・Bスタッフが見た画面はこちらより更に簡素だったという。

それはぜんぜん魅力的に見えなかった。いかにも中途半端で動き方もぎこちなく、アマチュアのサンプルを思わせた。しかも色がおそろしく地味だった。

結局HOT・Bは、MSX2の表現力を駆使した「ブロックブレイカー」の華やかな攻撃性を選び、テトリスには手を出さなかった。スタッフたちは誰もその怪物性に気づかず、後になって自分たちの前をよぎったものに思い至った。

あのときHOT・Bがテトリスを選んでいたら、一体どうなっただろうか。大ブームを引き起こし、勝利を掴んでいたかもしれない。或いは版権問題に巻き込まれて大きな痛手を負っていたのかもしれない。

1990年夏、スタッフたちは「ブロックブレイカー」の魅力を自分たちなりに捉えなおす試みと格闘していた。「デビリッシュ」の膨大な企画書の存在はこの問題に彼らが真正面から取り組んだことを物語る。

「デビリッシュ」はその後メガドライブ「バッドオーメン」となり、その世界性を高く評価された。既知のものに独自の世界観を与えて輝かせるのがHOT・Bの流儀である。「ブロックブレイカー」を組み換えた「デビリッシュ」「バッドオーメン」の世界は、いかにもHOT・Bらしい軽妙な機知に溢れ、かれらが自分の道を突き進んだことを示している。

さて次回は1991年春ごろまで、HOT・Bがセガハード向けタイトルと同時に展開したファミコンやゲームボーイ、アーケード筐体などのタイトル群を追ってゆく。HOT・Bの積極性が発揮された多くのハードの作品を、ノヒイジョウタのセレクトでお送りする。

※1 MSX2、PC‐8801、PC‐9801など多数。
※2 テトリス、BPS関連の記述は『テトリス·エフェクト 世界を惑わせたゲーム』(ダン·アッカーマン 2017年 白揚社)による。