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昭和49年8月28日初版発行


昭和49年9月5日初版発行


昭和49年9月13日初版発行

臣新蔵の描く「男」における「女」からの視点

菊田犬

僕が臣作品に初めて接したのは、5〜6年前に購入した「[貸本まんが]傑作選 怪」というアンソロジーたっだ。

もともとは、それに収録されていた水木作品が目当てだったのだが、そこに臣による「首」という短編が載っていたのである。
その時、既に臣の存在は知っていたし、平田弘史のファンでもあったのだが、どうせ兄の七光りで売っているだけで、たいした事ないだろうと読みもしていなかったのである。
その「首」という作品は、上手くまとまった佳作という程度だったが、絵柄が兄・平田弘史とそっくりなのに驚かされた。 僕程度の鑑定眼では、全くといっていいほど見分けがつかない。

その当時、失業中だったため平田作品を読みたくとも高価なゆえ手が出せず、 平田に飢えていた僕は、平田の代用品として臣を読み始めたのであった。
しかし、臣作品を10冊も読んだ頃、僕の考えが見当はずれだったことに気付く。
平田と臣、兄弟でありながら全く異質のものがあったのだ。

まず、絵柄も似ているのは、ほんとうの初期作品のみで、貸本時代から早くも自己流の絵が確立されている。 平田の迫力ある、男が迸るような絵にくらべ、臣の絵からは何か柔らか味のある、色気のようなものが滲み出ているのである。 別に濡れ場を描かずとも、ページ全体が艶っぽいのだ。

そして最大の違いは、その視点の違いである。
平田の作品を侍と表すなら、臣作品は、侍・・・?、平田が男なら臣は男・・・?といった感じなのだ。
これは何も貶しているのではない。
臣の話からは、豪快な武士の物語でも、繊細さ、弱さといったものが読みとれるのである。
これは臣新蔵という人が、男性としてはもちろん、 女性の視点からも物事を捉えることが出来るためだと、僕は勝手に解釈している。

例を挙げるなら、「劇画 鉄門海上人伝 愛朽つるとも」のなかで、主人公が世俗を断ち切る為に、 男根を切り落とし、恋人の渡すのであるが、その恋人は悲しみ、哀れむのではなく、怒り、憎しむのである。

これは普通、男の発想ではなかなか出てこないのではないか?
このシーンを読んだ時正直、ガツンと殴られたような衝撃を受け、こう思った。
「この人は男を描きながらも、女の感性も持ち合わせているのだ」と。

いろいろ、偉そうに語ってみましたが、僕と全然違う意見の人もいるでしょう。
それが当然で、人それぞれに違った感想・愛着を持っているものです。
そして、それが自然な漫画の読み方なのではないでしょうか。

もし、この文を読んで臣作品に興味をもった人がいれば嬉しく思います。
出来れば、僕の知っている範囲内で臣の代表作など紹介したいのですが、 臣本はなかなか手に入れにくく、僕自身、まだまだ収集途中のため、ここでは控えます。
それに僕の欲しい本が買われちゃうと悲しいので!












貸し本時代に日の丸文庫から出た「鉄門海」、後に雑誌連載により、「鉄門海上人伝愛朽つるとも」としてリメイクされる。
ページ数も「鉄門海」は400ページ、「鉄門海上人伝」は、750ページ、と臣新蔵がこの物語に思い入れが強かったことがうかがわれる。
しかし、臣の基本はエロスである。わらべの無邪気な白いふとももにエロスを香らせれる劇画家は、2人と居ないのではないだろうか?(断じてロリコンではない)