• 絶賛発売中
  • 著者:レムリア・ルネッサンス
  • 発行:まんだらけ出版部
  • ISBN978-4-86072-030-8
  • 256ページ
  • 四六判
  • 並製
  • カバー帯付き
  • 税込1050円(送料無料)

レムリア・ルネッサンス スピリチュアルメッセージシリーズ10

オピニオンリーダーの女性霊

堂々と女性が、自分の本来の個性というもの、 才能というもの、素晴らしさというものを謳(うた)いあげ、 その上で女性としての優しさも、おおらかさも受容性も、 母性も兼ね備えつつ、そして男性も、 ありのままのその女性を受け入れて愛していただけるような―――。

新たな教育を受ける中で、己の素晴らしさに気づきながら、 自分自身の人生を自分自身の判断で選び取っていく。
そのような段階に、もう女性たちがきてもいいのではないかという考えのもとに私たちが、 時代の流れの中で出てきたということがあるのです。

女性が不当に抑圧され、本来の素晴らしさというものを内側に秘めたままで少しもその力を発揮しないままに、 この地球が進歩発展することはあり得ないのです。
地球の人びとの半分は女性なのですから、本来の立場に戻らせなくてはいけません。

第一章:平塚らいてう
  • 女性たちが本来の才能を輝かせるために
第二章:ジャンヌ・ダルク
  • 天上界の扉が開かれた今という時代
  • 戦闘系の女性の役割
第三章:中山みき
  • 未来に花咲く法の種
第四章:ヘレン・ケラー
  • 真の幸せとは
第五章:マリア・テレジア
  • 愛の女神より現代の女性たちへ
第六章:アマーリエ
  • 神の夢を我が夢として

しかし、昨今、まあ仏陀様におかれましても、「だいたいが女性というものを、そういうオピニオンリーダーになるのはあまりふさわしくないのだ」と、「家庭の中にこもっていなさい」、というのが特に日本の場合は強かったので、「やるとだいたいお嫁にいけない」とか、「女性らしくない」、という言葉の中で淘汰されてしまって、わたしたちがあまり名前が今回の文明では活躍したり、残る場所がなかったというのが事実なのです。
でも、女性があのままいつまでも男性に養われていて、教育もなく、ほんとうは役割の違いはあるけれども、でも我々においては、意識においては、男性、女性においては、基本的には平等であるという、そのような観点を打ち出さなければいけない時期が来たときには、わたくしたちはまた大挙して出てくるのです。
そのような理論が通じるには、やはり原始農耕社会のような時代の中では、肉体的に勝る男性たちの支配下に女性たちが置かれていたという時代が長いので、だから、わたしたちはしばらく出るのを控えている。文化が爛熟してきて、女性がほんとうの意味で、役割の違いを踏まえても、そこを認識しながら、かつ、女性が女性として男性と、やはり神様につくられた意味においては平等であるのだと、そのような主張ができるような時代が熟してまいりましたら、やはりわたくしたちも順番に出てきているのが実情なのです。
逆にいうと、これからわたくしたちが出る順番が出てきたかな、というふうに思っているのです。
----------本書より引用
どれだけ頑張ろうとしても、基本的にはやはり好きな男性に愛されない自分というものを見ていて、やっぱりあきらめて精神的な進歩ができずにまた後退して、ひとつの時代の流れの中、習慣の中で、あきらめの中で、絶望の中で、また押し戻されてしまうという、そのような歴史が随分あったのです。
でも、やはりわたくしたちのような者が、明治以降、大正浪漫(ろまん)と言われる明治、大正以降、昭和、この、まして、今はひじょうに多くの女性たちが、このように四年制大学と呼ばれているところに行ってますよねえ。津田梅子さんなんかでも、津田塾大学とか、素晴らしい女子教育というものの提言をなさられた、あの方もわたくしたちのグループにおられる方なのです。あの津田梅子さんなんかもそういう方なのです。
そういうひとつの女性というものが、新たな教育を受ける中で、自分自身の己の素晴らしさに気づきながら、自分自身の人生を自分自身の判断で選び取っていく。そのような段階に、もう女性たちがきてもいいのではないかという、そういう神様のお考えのもとにわたくしたちが、その時代を、ひとつの時代の流れの中で出てきたということがあるのです。
----------本書より引用
だから、これが、今の北朝鮮の姿もそうなのです。そのようなものの中でしか発想ができない者たちがいるのです。その者たちがあのように食べるものもなくて、弾圧された社会の閉鎖的な中で、独善的な中で、いや、これを骨身にしみてみて、自由というものがどれだけありがたいものなのか、社会のほかのものたちと胸を広げ、手を携え合いながら、ともに共存して生きていくのが、やっぱり神の子の姿であるのだと。
自由意志というものがどんなにありがたいものであるか。そういう閉鎖的なところにいくならば食べ物すらなくなっていく。自然界ですら、その恩恵を本人たちに恵みとして賜らなくなる。そのようなことすべてを彼らは今経験しているのです。そこでなければ修行できない魂がいるということ。
----------本書より引用
それが結果的にイスラムの、キリスト教圏への怒りというものが、そのアメリカというものに対して、そのちょうど対象が、照準が合ってしまって、その貿易センタービルというものを爆破することで、ちょうどキリスト教圏とイスラム教圏とのカルマの、エネルギーのぶつかり合い、解消、そしてそれが現代のローマというところに 、実はあそこの中東のところに今はもうキリスト者としてのエネルギー磁場はないのですね。ほとんどがイスラムなのです。キリスト者としての、キリスト教のエネルギーの代表としてどこがあるか。今はそれを象徴するのがアメリカなのです。聖書のバイブルの上でアメリカの大統領というのは宣誓をします。今、ヨーロッパはもうすでに死すべき形にして、キリスト教の文化の流れとしての大きなものはないのです。
自由というものを通して、自由と解放というものを通して、キリスト教圏の代表として、今、行き過ぎた形でありますけれども、キリスト教圏の代表、そして、ひじょうに、マホメットの説かれたイスラムの教え、一途ではあるけれども、ひじょうに間違ってしまった教えとの、間違ったものと間違ったもの同士との、最後のエネルギーの、カルマの、地球規模での総清算が行われているということなのです。
----------本書より引用
たかが今回の文明だけではない。まあ、この人においてもレムリアとかあるでしょう。アトランティスに出ているときもあるのです。あなたにおかれましても、いろんなかつての文明の中に数々の転生をなさっている。その大きな自分の魂の歴史の中で、アトランティスがあり、レムリアがあり、ムーがあり、ゴンダアナがあり、そして今回の文明があるという、その転生の中で、自分たちのどんな、その中におきましてもこの今回の文明の今の時期というのは、大きな地球のターニングポイントになっているという、それくらいシフトアップする、たいへんな時期に今あなた方はいて、その理念を預かっている方たちであるということを考えたならば、たいへんなお仕事をしておられるということ。そのように、わたくしのような者は思うのです。
----------本書より引用
わたくしは、このアマーリエ様のことを長いこと見てきているのです。この方がK会や「○○○○の風」で、ひとり、人びとをひっぱりながら奮闘しているときから、わたくしは、今度はわたくしが守護霊をしながらこの方にインスピレーションを送っていたのです。
ですから、この方がほんとうにもう最後、このレムリアになったときに、もうこのような運動はたくさんだと、懲り懲りだと、うんざりしている姿というのを、わたしが痛いほどわかっていたのです。
ですけども、この最後の戦いこそにほんとうの意味があるのだということ、そのことを理解して、どうか一緒に頑張っていただきたいと、わたくしはこの方にいつも言っていたのです。
で、やっと重い腰を上げていただきましたけれども、わたくしはこのアマーリエ様の気持ちは痛いほどわかるのです。
可愛らしい、まだ幼いお子様も含めて、昨日もホームページにお書きになっておられましたけれども、ほんとうに子どもたちとともに幸せな、平凡だけれどもささやかな幸せの中に、女性として生きていきたいという気持ち、それはわたくしにおいても同じだったのです。
----------本書より引用
誰が好き好んでこのような、まだ何の社会経験も、ましてや戦(いくさ)の戦い方など何も知らぬわたくしが戦地に赴き、兵士たちの指導者になんかになりたかったでしょうか。
わたくしがいちばん望んだのは、母さんや父さんと兄弟たちと一緒に、あの田舎のフランスのあの地で、母さんと一緒に毛糸を編んだり、一緒にパンを焼いたり、羊の世話をしたり、そのような生活をわたしはほんとうに好んでいたのです。
しかし、わたくしにおきましても、この方におきましても、神よりの啓示により、自分でいくら耳を塞いでも、次から次へと呼びかけてくる天上界からの声というのが聞こえてくるのです。それは、否定しても否定しても、呼びかけが続くのです。ささやかな平凡な幸せに憧れながら、でも、やはり神からの、神様からの招命には受けていかなくてはいけないという、自分たちの本能のような魂の呼びかけの中で立ち上がっていく。そこにおいては、けっして他の者たちよりも優れているとか、他の人たちよりもやりがいのある仕事だなどという、そのように、男性方のように考えられる、そんな個性はわたしたち女性の、たとえ「戦闘系」と先ほどおっしゃられていましたけれども、わたしたちのような立場にありましても、けっして好ましい招命ではないのです。
でも、わたくしやアマーリエ様のように、神々のお声が聞こえて、そして戦いというものに対して、もう過去世の中でいくつかの戦いを乗り越えてきておりますので、自然と戦い方というものを身につけている者というのはひじょうに少ないので、やはり神の声を聞けるという意味におきまして、このような場所には神々により招命されて、そのお役に立たせていただく場に呼ばれてしまうという、そのようなことがあるのですね。
ですから、わたくしはいちばんわかるのです。わたくしが今度生まれてきて、またジャンヌ・ダルクとしての人生を歩みたいかと言いますと、そんな人生を望まないと思います。
でも、いつも言われているように、人にはそれぞれ現象、そのわたしたちの個性を神々により、根源の宇宙の神によりつくられたときにね、その役割というか、使命と申しますか、そのような力というものを埋めこまれてわたくしたちは創造されているのです。
そういう意味におきましては、わたくしもアマーリエ様も同じなのです。霊言をとるという、ひじょうに、そういう能力を持ちながら、かつ、ひとつの時代のうねりの中において、人びとを引っ張っていき、指導していくという、そのような女性霊という役割というのを、太初から持ち合わせているのだと思います。そして、このような者は、けっしてたくさんの人数が女性霊として天上界にもおりませんので、どうしても特殊な役割として、わたくしたちが駆り出されてくるということがあるのかもしれません。
----------本書より引用
扉はいつまでも開かれません。わたくしがミカエル大天使のお声を聞き続けたのも、わずか、最後、火刑(かけい)台(だい)に登るまでの数年でした。それを伝えてみても多くの者は信じていただけず、いい時だけが祀り上げられ、そうでなければ「魔女」であると言って、最後、火あぶりになっていったのです。
今この方におかれましても、当初霊言を伝えたときにはほんとうにありがたがって、喜んで聞いていた者たちも、ひとたび自分にとって都合の悪いことを言われると、手のひらを返したかのように、この方の言葉が魔界からの霊言であるとか、まるで魔女であるかのようなことを言われ続けるではないですか。ずっとずっと何度もその姿を見てきました。
わたくしも同じような経験をしてきているのです。だから、それをよく骨身にしみて知っているから、この方も霊言をとるのが嫌いなのです。いやなのです。
普通の人間として当たり前の評価を受けるのであるのならば、少しもおかしなことを言う人ではないのに、霊言をとっていたということだけにおいて過大評価されたと思うと、いきなりしっぺ返しを受けて、わたしならば焼き殺されていくというような、そのような、売られていったわけですけれども、牢屋に入れられていったわけですけれども。そのようなことになっていったのです。
----------本書より引用
そのジャンヌと呼ばれたその生命体だけがわたくしの生命体すべてではないのです。過去いろいろな形の経験もしております。あなた方の文明の中ではこのジャンヌ・ダルクと呼ばれている、その者があなた方の意識の中にあるから、わたくしはジャンヌ・ダルクという意識で話をしております。
しかし、わたくしも別な時代には別の形で、やはり魂のバランスをとるために生まれているのです。しかし、大好きだ大好きだという気持ちの中において、多くの人びとのお役に立ちたいというその気持ちにおいて、たまたまジャンヌ的にあなた方から見たら戦闘系のその女性の位置にいるということ。わたくしたちはやはり 、わたくしはホワイト霊団のやはり影響を受けておりますけれども、モーリヤ様の、モーゼ様と呼ばれている意識がありますけれども、わたくしたちがモーリヤ様と呼ばれている本体意識の、あの方がたのご指導の中におきまして、わたくしたちが改革というものを、やはり新たな時代における提言というものをするために来ております。あの時代であるからわたくしはあのようなシチュエーションの中で出てきたということ。
もし近現代であるならば、また別の形でのわたくしの現れ方というものがあったと思います。ですから、あのときはあのときで精一杯やっていたということ、とお考えいただけたらいいのかと思います。
----------本書より引用
わたくしは中山みきと申します。
あなた方のお知りおきな記憶の中では、天理教と呼ばれているところの、教祖と呼ばれた者でございます。
あの当時は、江戸時代という封建時代の末期という時代の、世の中がまだまだ士農工商と呼ばれる身分制度の中で、人びとの自由意志というものは少しも通らず、その身分、そして、男女の差別の中で、人びとは食べるものもままならず、生きる目的も知らされず、ただただ、その体制の中で、縛られるような閉塞感の中で生きていた時代だったのです。
わたくしはその時代に生まれました。そこで一介の、農家と言っても多少は大きいうちでございましたが、そのような、まあ、農家は農家でございます。そこの妻として、母として、嫁ぎ先で一生懸命、普通の平凡な人生をおくっていた者なのです。
でも、わたしの心の中にあるのは、いつも神さんと一緒に、人びとがみんな自分たちの個性を、それぞれの素晴らしさを光り輝かせて、みんなで手と手を取りおおて、みんなで幸せに神さんの喜ばれる世をつくろうやないかという、そのような思いで生きていたのです。
ですから、わたしの気持ちの中には、結婚して、その中で幸せだけを見い出すというよりは、なぜに、このように農民の世界にも庄屋があり、そして、畑を持ってる者たちがおり、そして、水呑み百姓と呼ばれる小作のように、一生、人の田畑(でんぱた)を耕しながら、一生、生きる望みも張りもなく、食べるだけに追われ、いや、ままならぬ、食べるものすら、ひもじい思いをして生きていくという、そのような貧しい者たちもたくさんおりました。
わたくしが四十近くなった頃でしたか、たいへんな飢饉がありまして、多くの小作たちが、多くの者たちが次々と飢え死にしていったとです。行って、その中でどうにか助けてやりたいなあと思っても、わたしの力ではどうにもできなかったのです。なぜこのような天変地異が起き、なぜ一方ではうなるほど食べるものがあるのに、このような者たちは飢え死にしていかねばならないのだろうかと、その姿を見るにつけ、悲しくて、悲しくて、はらはらと涙が落ちたのです。 わたしは一部の富んだ者たちよりも、彼らとともに生きようと決意を決めました。彼らが何も持たなくても、食べるものにひもじかったとしても、そこに幼子たちがおり、女たちのにぎやかな笑い声がさざめき、男衆たちの元気な働く姿があれば、人はこの世でいくらでも幸せに生きていくことができるのだと、わたしは思いました。
なら、人びとの心に、わたしにだけしか聞こえなかった神さんの心を、みんなに伝えていこう。そして、物はなくても心だけは神様のほうに、一筋に向かって生きる。そのような社会をつくることで、人びとの心の中に幸せな思いをつくり、それこそが、いちばんこの地上を苦楽のない素晴らしい、神様の喜ばれる地上天国とさせていくことができる道ではないかと、わたしはわたしなりに考えたのです。
----------本書より引用
わたくしが、生前、「おぢば」という言葉を申しました。そこは神さんが、神の光が出る、信仰心の中心になる場所であるということを申しました。「おぢば」というのがあるのならば、今はこの日本列島すべてが、「おぢば」でございます。そしてこの「おぢば」より光と放ち、この地球すべてを光でくるむために、天上界の神々のご計画はあるのです。
ですから、わたくしはそのためにお力添えをできたという喜びを持っておりますので、どうか皆さん方もみんなで手を取りおおて、わたしが昔申したように、手と手を取りおおて、キリスト教徒も仏教徒も、日本神道も天理教の者も、のう、谷口雅春先生がお説きになったと呼ばれている生長の家の方々も、そのG会と呼ばれている方々も、仏陀のお出になられたK会の方々の皆さんもね、同じ日本に生まれた、そういう尊い仲間たちではありませぬか。どうか皆さんで、わたしが言ったように、手と手を取りおおて、一緒に舞ってみてはいかがでしょうか。
「神様の計画の中で、この素晴らしい最後のこの計画の中で、互いにいがみ合うのではなく、互いに素晴らしい個性を生かし合うことで、そして、男女がともに尊重し合う中で、神さんの喜ばれる、苦楽のない素晴らしい大調和の世の中をつくろうよ、喜びに満ちて一緒に歌おうよ、一緒に踊ろうよ」と私が申したのでございます。
----------本書より引用
わたくしは、十五、六の頃でございましたけれども、幽体離脱というのを、実は経験しているのです。何も聞こえない中において、ある日、突然、自分の肉体が図書館にありながら、遠く離れたヨーロッパの国々を巡っているのを見たのです。
わたくしはそのときに理解したのです。肉体というのは単に、この地上に出て来るときの、動かすための道具にすぎぬ、衣にすぎぬのであると。内在する魂、霊性こそが、神の子としての本来の姿であるのであると。わたくしはそのときに、まざまざと、一瞬にしてさまざまな場所を、ヨーロッパの各地ですが、周って、瞬間的にまたアメリカに帰って来ていたのです。
ですから、そのようなかたちをもちまして、わたくしは、魂の自由というもの、魂になればすべてが見え、聞こえ、何でも話すことができ、いえ、それ以上のコミュニケーションというのができるのです。
そして、そのときに、脇に、そのときはどなたか知りませんでしたけれども、スウェーデンボルグ様により、あちこちのさまざまな思想というもの、歴史というものを、幽体離脱の経験を通しながら、わたくしはさまざまな教えを受けていたのです。
ですから、ある意味でひじょうに霊的な感覚の中で、宗教というものを見つめていたということ。だからエマニュエル・スウェーデンボルグという方の、神秘思想家と呼ばれてる方の書物を読んだときにも、ひじょうに納得して素直にわかったのです。
----------本書より引用
それがわかれば、そういう子どもたちを引き受けておかれるご両親、周りの環境、ひいては自治体、国というものが、どのように受け入れていくかということを考えるよすがになるのではないかと思うのです。
けっして、ハンディキャップのある子どもを産んだからといって、昔で言うならば、ほとんどが母親が悪いと、うちの嫁が不具の子を産んだと言われたのかも知れません。
そんなことはない。逆に言うと、ハンディキャップのあるお子さんを、どうぞ来てくださいと、お引き受けしましょうといって引き受けられた、実に徳高きご両親様であったということ。
それだけの、ほかの方以上の並外れた愛というものをお持ちの方であるからこそ、そういうお子様を受け入れ、お産みになってくださったのだという、そういう敬意が、そういうご両親様方に対してあってもよいはずなのです。
それと同時に、生まれて来た子どもたちに対しても、ようこそ生まれて来たねと、ほかの方たちに対して、あなたがまさに肉体ではない、魂こそが神の子であると、それを証しするために、あなたは生まれて来てくれたんだね。世の中に、この世界の中において、生まれて来なくてよかった子など、ただの一人もいないのです。すべてに意味があり、すべてが神が祝福してこの地上に生まれさせていかれるのです。
----------本書より引用
あなた方は死ぬ寸前まで、自分の命は永遠であるかのように生きておられるかも知れない。死というものを、なるべく考えないようにして生きて来られるのかも知れない。
でも、あなた方が避けようとしている死というものは、本来の、わたくしたちが、神の子の、実在の世界に帰ることであり、本来の肉体という、あなた方が完璧だと思っているような肉体から開放される瞬間であり、あらゆる感覚が戻り、すべてが光の、神の光の中にさらされ、愛の化身として、神の子としての実在の姿だけで戻っていける、魂の牢獄から開放される瞬間なのです。
死というものを暗く悲しいものとして考えてはなりません。わたくしたちの世界から見たのならば、あなた方、地上におられる方々の方が、よっぽど重い重い鎖を両手両足に縛られ、目にはアイマスクのようなものをつけられて、本来の世界が見えない、悲しい、悲しい姿に見えるのです。
----------本書より引用
こんな時代の大転換期に生まれていて、その時代認識を、自分が、今、置かれた立場を、この地球の未来を見極めていくこともできないあなた方であったのならば、龍馬様たちの足下にも及ばないあなた方であるということです。
今、天上界からこれだけの指示を受けて、指導を受けております。天上界から霊言が直接に言葉として伝えられているのです。でもね、過去、幾多の英雄たちは、改革者たちは、このような言葉は聴いてはいないのです。こんな言葉を聴かなくても、彼らは心で感じ取り、時代を見抜き、命を捧げ尽くして、その情熱のあらん限りに、しがみついてでも行動して、実現していった者たちではないのでしょうか。
皆さま方は、だんだん霊言というものに慣れてきているのです。霊言というものを聴くことに依存してきていると、わたくしは思うのです。霊言を、はっきり言って、命がけでわたくしは降ろしているのです。でも、霊言を聴くことで満足してしまう。そんなものであってはいけないのです。いろんな霊人がそれぞれの立場で言います。でも、あなた方がやらなきゃいけないことは、今、この時代を、この地球の、この日本の土の上で、あなた方の肉体を持って、できることをもって、あなた方の使命は為し得るということなのです。
その立脚点というものをしっかりと捉えて、今、あなた方の個性を通して、何ができるのか。神の目的はわかりました。計画もわかりました。その中で、辛いこともあるかも知れないけれども、命がけになって何をしなくてはいけないか。それをね、もっともっと腹をくくって、考えていただきたいのです。
----------本書より引用